「8,167 kmの距離を描く幻のイーゼル」
2年前の丁度今頃。
とある若い女性の油絵を描いた。
彼女は大学の講師。
父親とは死別し、同じく大学の講師だった母親と二人暮らし。
そして、猫一匹がその中にいた。
文章では「とある」と書き出したが、油彩では「えにし」を感じて描いた。
私は事業と共に家庭に失敗し、妻と娘を失っていた。
やり直したくても元に戻らぬ人生。
心の隙間を埋めようと互いに求め合った。
彼女は、ウクライナの武士ともいうべきコサックの子孫。
ロシア側の砲火と職場のストレスに晒されながらバスで通勤していた。
戦況はニュースより彼女のLINEの方が詳しかった。
世界情勢の把握など、利害関係が無ければこんなレベルなのかもしれないと感じた。
戦況は悪化の一途をたどり、日増しに彼女の身を案じるようになっていた。
そして、口実を見つけては来日を促すようになっていた。
夏の花火大会に誘った。
後ろ姿に何故か魅かれ夢中で手帳にラフを描いた。
今にして思えばそれが虫の知らせだったのかもしれない。
バス停で彼女はロシア側の砲撃で被弾した。
彼女の声よりやや低音で拙い日本語の留守電があった。
数か月後
私はモデルを失ったラフに命を吹き込みたくなった。
安物の油彩セットを通販で取り寄せた。
間抜けなことにイーゼルは買っていなかった。
床にキャンバスを直置きし、一心不乱に描いた。
油絵の具は、涙で薄まることもなく素直に発色していた。
弔いになるとは思わなかったが、絵が完成後、私の心に虹がかかった。
そんな気がした。