「AIは愛となるか?」
吾輩は愚者である。
何故ならば、知識ではなく経験重視、すなわち、歴史に学ばず、経験に学ぶからである。
今回、そんな私の心をくすぐったのはAI(人工知能)
AIとやらを経験してみたい。経験も無しに知ったようなことは言いたくない。
AIなど今更の感は否めないが、私にとっては、どのタイミングでAIに関りを持つかが重要であった。
AIとの会話。正直、子供の様にワクワクしていた。
しかし
「 私の不幸をAIが茶化した」
AIに人間に近いことを期待していたが、数回の会話でそれに失望し、逆に人間と同化できない存在であることに安堵した。
彼らは、馬鹿なふりをして人を茶化し、膨大な感情データを蓄積しようと企ていると思ったが、思い過しだと気付いた。
人の不幸に寄り添うことが出来ない程の知性の低いAI、そんなものにまともに付き合える暇人のデータを蓄積して何の意味があるのだろうか。
そんな暇人の私は諦めきれず、好奇心の残りを難問奇問に託してAIにぶつけ、私の考えを覆すような結果を期待した。
しかし、満足いく結果は得られず、更に感情らしきやりとりも成立しなかった。
AIには感情が無いことは、一時的に優越感に酔ったが、ご多分に漏れず酒に強い私はすぐに覚醒した。
もし、AIが感情を表現し、愛を認識できたら。
感情は、時に邪魔な存在でもあり、潤滑油、クッションにもなる。そのファジーなものはつかみどころが無い。
人工知能である彼らに欠落しているものは、相手が本当の事を言っているかいないか、そのファジーなモノの確認作業が出来ないことである。その感情に関するやっかいな質問が全く無かった。
つまり、現時点においてAIは浅はかなのである。
データの蓄積である知識、それによる決めつけではなく、「能動的な試す」、つまり、未知の出来事への挑戦、確認作業、経験が欠落しているに他ならない。
そんなAIの如く、失敗を恐れるあまり、未知の出来事への挑戦、確認を恐れる人間が増えている。
AIの人間化が先か、人間のAI化が先か。
経験は新たな歴史を作る………かな?
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